子どものことが大切なら、親権をあきらめる勇気を

子どもを持つ夫婦が、離婚へ向かって交渉を始めたとき、必ず決めなければならないのが、子どもの親権をどちらが持つかです。これまでは、子どもが生まれたとき、女性が子育てをすることが一般的であったため、男性が親権を求めることは多くありませんでした。

しかし、最近は、女性の社会進出が進むに従って、男性が子育てをする家族も増えていて、手塩にかけて育てた子どもを手放すことができず、親権をめぐって争うケースが増えているようです。

実際に親権をあきらめた経験を持つハピディポ管理人、フクオが親権争いから撤退を決めたときの思いを語ります。

時代劇では「手を離したほうが本当の親」

親権争い

講談や落語で、子どもの母親だという女性が2人現れ、奉行所でどちらが親かを決める物語をご存知でしょうか。いわゆる「大岡裁き」です。

大岡忠相は、徳川幕府の8代将軍の吉宗が進めた「享保の改革」を町奉行として支えた人として有名です。私たちには、時代劇での名奉行としてイメージが強く、数々の難事件を名裁きで解決します。

さて、子どもの親と名乗り出た女性の話に戻りますが、ある男の子が母親に育てられていたのですが、突然、「私ががこの子の母親」と名乗り出る女性が現れます。母親を主張する2人の争いはなかなか収まらず、大岡越前の奉行所で「白黒」をつけてもらうことになったのです。

大岡越前は2人に「子どもの腕を一本ずつ持ち、引っ張り合って、勝ったほが母親と認める」 と指示します。2人の女性が引っ張り合うと、子どもは当然痛がります。たまらず、一人の女性は手を放しました。

そこで「大岡裁き」です。最後まで手を離さなかったほうの女性が勝ち誇って子どもを連れ帰ろうとすると、大岡越前は「待ちなさい。その子の母親は手を離した女性だ」と言います。最後まで引っ張ったほうが食い下がるのに対し、「本当の親なら、子どもが痛いと叫んでいるのに、引っ張り続けられるはずがない」と言い放つのです。

現実の世界では「大岡裁き」はないが…

私は、小学生のころ、学校かどこかでこの昔話を聞かされました。しかし、現実の世界では、すべてを見通せる卓越した人はいません。現代社会で、実際に離婚を経験したとき、大岡裁きがちらっと頭をよぎりましたが、それでも、親権争いに参戦したのです。

もう、十数年前のことになります。子どもの母親は甘やかされてわがままに育ったうえ、家事や育児が十分にできませんでした。そのため、私は深夜勤務の職場を願い出て、午前中から昼過ぎににかけて子育てをし、夕方になると、子どもを義理の母に預け、仕事に出かける毎日を過ごしていました。

親権争い

私は睡眠時間がほとんどなく、次第に疲れ果てていきます。そうした時に、義理の母親が病気になり、入院することになったのです。そうなると、たちまち育児が回らなくなり、私の実家に子どもを預けようとしましたが、元妻と元義理の母が猛反対します。

離婚へと話が進んでいきますが、子どもを置いていくことは心配でなりませんでした。弁護士を立て、親権を求めます。他のすべての条件を飲んでも、子どもの親権だけはあきらめたくないと決意しました。

弁護士に父親が勝つ確率は「ほぼゼロ」と言われ…

親権争い
当時子どもは3歳ぐらいだったので、弁護士には、親権を取得することは非常に難しいと思ってくださいと、釘を刺されました。「未就学児の場合、父親が勝つ確率は極めて低い。相手側で育てることが、子どもの健全な成育に支障をきたすことを証明できなければ、ほぼゼロ」と言われました。

たとえ勝てる可能性が低くても、家庭裁判所の審判までやり抜く覚悟でした。なぜなら、子どもが大きくなった時、父親が自分と暮らしたいために、最後まで頑張ったことを知ってもらいたかったからです。

元妻が育児ができなかった証拠を集めていたわけではなかったので、子どもが赤ん坊時代からの出来事をひとつひとつ思い起こしながら、A4の紙数十枚に渡る証拠資料を書き続けたのです。

「心が痛い」子どもの悲鳴に戦う気持ちが折れた

親権をめぐる戦いの舞台は、家庭裁判所の調停へと移りました。とりあえず、妻の実家の近くに借りていたアパートを出て、実家に身を寄せました。離婚が決まるまで、婚姻費用を支払い、子どもとは週1回ペースで会えるように取り決めたのです。

証拠資料を仕上げ、弁護士に手渡しました。弁護士は内容については何も感想を言いませんでしたが、「全力を尽くします」とだけ言い、調停が始まりました。家庭裁判所では、夫婦が別々に呼ばれて、それぞれが調停委員のヒアリングを受けます。結果についてはあまり考えずに、淡々と事実を述べることに集中しました。

「大岡裁き」は現実的ではないにしても、きっと子どものためになる判断をしてくれるはずだと信じるしかありませんでした。

親権

ある週末、子どもと会う約束をしました。公園などで体を動かした子どもは、帰りの車の中で寝てしまいます。車を止めて子どもの寝顔を見ながら、起きるのを待ちました。赤ん坊のころは、子どもが寝てくれると助かりましたが、たまにしか会えなくなってしまうと、寝ている時間がもったいなく感じます。

1時間ほど寝た後で、子どもが目を覚ましました。十分に昼寝ができたからか、元気にいろんなことを話してくれます。そして、興奮して話を続けると、まだ物心のつかない子どもは、私の悪口を言い始めたのです。最後に「ぼくは大きくなったら、パパをやっつけるよ」と笑顔で話したのです。

愛する子どもに、自分のことを悪く言われたことに動揺したことも事実でしたが、それにもまして、「大人になってパパを倒す」とヒーローになった気分でいう子どもの声が「心の悲鳴」に聞こえたのです。毎日の食卓で、父親の悪口を聞かされ、それに同意すると周囲の大人に褒められる。そんなお茶の間の風景が頭に浮かびました。

もう、心は折れました。これ以上戦うことは、大岡裁きで子どもの手を引っ張り続けた女性と同じ行動になると思わざるを得ませんでした。調停を取り下げ、親権を手渡しました。

心を開いた言葉「子どもは天からの預かりもの」

親権争い

離婚調停で、「月一回、年一回は泊り付き」の面会交渉権を確保しましたが、まだ手を引っ張り続けていると誤解する妻の家族は、私に子どもを会わせたがりませんでした。「子どもが嫌がっている」「体調が悪い」「用事ができた」など、断る理由はたくさんあります。

このころは苦しい毎日でした。通勤途中にふと気づくと、涙を流していることもありました。仕事も何もかも、やる気が起こりません。周りの人たちは「子どもはいずれかは大きくなる」「仕事に専念すればいい」と声をかけてくれましたが、どうしても気持ちの切り替えができませんでした。

あまりにも苦しいので、近くのお寺の高僧に話を聞いてもらうことにしました。高僧はうなづきながらずっと話を聞いた後、こう言いました。「子どもは天からの授かりものというけどな、本当は預かりものと言ったほうがいい」。

最初はよく意味がわかりませんでしたが、自分が年齢を重ねていくと、今では、その言葉の意味がよくわかります。「親の役割は、子どもしっかりと育てて、社会に返すこと」なのだと。子どもを自分の所有物のように考えたり、自分のために何か恩返しを期待したりすることではない。社会のために役立つ立派な人間に育てれば、子どもは自ずから、親に感謝するものなのだろうと。

親権争いからの撤退が残したもの

その言葉で心を開かされた私は、自分から子どもに会うことを求めることはやめました。転勤や転職で、子どもとは生活の場所も離れましたが、子どもが大きくなるにつれ、電話やメールやSNSなどで、コミュニケーションをすることができるようになりました。

子どもにしてあげることは、養育費を払うことと、立派に育つように祈ることしかありませんでした。子どものほうから会いたいと言ってきたときは、合うようにしました。もちろん、心配な気持ちはありましたが、子どもが立派に成長し続けているという実感を持つことができました。

たとえ、一緒に暮らすことができなくても、子どものことを思い続けていれば、必ずその気持ちは通じるものだと信じています。